お知らせ

「神にできることは?」

マルコによる福音書:10章17節~27節

林 健一 牧師

 

本日読んだ聖書箇所のはじめには、イエス様が旅に出ようとしたのを、金持ちの男は走り寄って、引き止めた。そして、ひざまずいて尋ねた。とあります。今日のお話はマタイ、ルカにも出てきます。ルカでは最高法院の議員として登場します。当時ユダヤで最高法院の議員といえば誰からも尊敬される人でした。富と名声と力があった人です。そんな彼がイエス様のまえに人目を気にしないでひざまずき、しかも「善い先生」とイエス様に教えを乞いに来たのです。彼の姿勢に謙遜かつ真理を教えてほしい。知りたいと願う、熱心な気持ちがあらわれています。それだけでも彼は当時の価値観から自由であった人のように思うのです。彼は心ひらかれた人であった。そんな彼でさえも自分自身に捕われていたというお話でもないでしょうか?
議員という面子を捨ててまでも、彼はイエス様に何を尋ね求めたのでしょうか。17節「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」彼は「永遠の命を受け継ぐ」ことができるにはどうしたらいいのか、答えを求めていたのでした。永遠の命という言葉を聞く時 肉体 魂の永続ということを考えてしまいます。現代において日本は世界のなかでも長寿国です。日本人の平均寿命が男が80歳、女が87歳です。しかし、長生きすることが良いことかと言えば大変なこともあるでしょう。老後をどう暮らしていけばよいのか?健康でいられるか?一人あるいは二人で暮らしていくことの大変さ、などいろいろな問題があります。今の時代でも生きることがこんなにも大変なことですから、イエス様がいた時代、生きるということは戦いであったと思います。生き残るために、という思いがあるように感じます。ですから、永遠の命というときに彼は真剣にイエス様に問いかけたのです。いったいどうしたら永遠の命を継ぐことができるのか?彼は神の国に入る確信を求めていました。すでに、聖書には答えがでています。ヨハネ17章3節には「永遠の命とは、唯一のまことの神と、神がお遣わしになったイエス・キリストを知ること」また、ローマ5章21節には「わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです」主イエス・キリストを通して永遠の命が与えられるのです。すでに、金持ちの男は永遠の命を与えるお方、主イエス・キリストにお会いしていたのです。彼が求めていた永遠の命は、彼の目の前にあったのでした。イエス様はどのようにして彼を永遠の命へと導かれるのでしょうか?(林)

「エッファタ 開け」

マルコによる福音書:7章31節~37節

林 健一 牧師

 

この人だけを
本日の箇所には、主イエスが、「耳が聞こえず、下の回らない」人を癒された出来事が記されています。主イエスは、先ず、この人だけを群衆の中から連れだします。それは、主イエスがこの人と真剣に、一対一で向かい合われたことを意味しています。この人を、自らを求めて来る群衆の中の一人としては扱われないのです。耳の聞こえない人は、大勢の人の中で言葉を語りかけられても、その人が果たして自分に関わりを持とうとしているのかどうか分かりません。この人は、主イエスが人々の中からこの人を連れ出して面と向かわれることによって、主イエスが他でもなく、自分に特別な業をなそうとされていることを悟ったことでしょう。主イエスは、それぞれの人にしっかりと向かい合い、それぞれの仕方で関わりを持って下さるのです。
耳と口を開く愛
この箇所が伝えようとしていることは、人々を驚かせるだけの奇跡行為者としての主イエスの姿ではありません。全ての人に対して示されている主イエスの愛なのです。私たちは愛に生き得ない者です。愛に生き得ないという私たちの罪は、耳を聞こえなくし、口を利けなくするのです。私たちは日々の生活において、隣人の言葉を聞くための耳が開かれているでしょうか。むしろ閉ざされていることが多いように思います。主イエスは、罪によって「耳が聞こえず、舌が回らない」私たちのもとに来られ、愛を示して下さる方なのです。私たちの閉じられた心は主イエスの愛によって開かれるのです。
深いため息
ここで、私たちは、もう一つの今までとは異なる主イエスの姿に目をとめたいと思います。「天を仰いで深く息をつき」と記されています。この言葉には、主イエスの嘆き苦しみが示されているのです。この福音書が、息をつかれる主イエスの姿を記すのは、この箇所が初めてです。耳が閉ざされている者は、隣人の言葉だけでなく、主イエスの語る御言葉も聞くことが出来ません。そのような人々の罪を、主イエスは嘆き苦しまれたのです。主イエスの愛の業の背後には、人間の罪に対する嘆き、苦しみがあるのです。
十字架の苦しみ
主イエスのため息に示される嘆き苦しみは、自らの命を投げ出す十字架の嘆き苦しみに通じています。このことに神の愛が現されています。十字架を示される時、主イエスが嘆きつつも、私たちの罪によって閉ざされている聞こえない耳と回らない舌に触れて、「開け」と語って下さっていることを知らされるのです。(林)

「自分の家に帰りなさい」

マルコによる福音書:5章1節~20節

林 健一 牧師

 

一人の異邦人を救うために(1~2節)

イエス様と弟子たちは、「湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた」とあります。ここはイスラエルの民の地ではなく、異邦人の地です。最後の20節に「デカポリス地方」とありますが、「デカ」とは数の十、「ポリス」は町です。この地方には、ローマ人が建てた十の町があったのです。イスラエルの人たちにとってローマは自分たちを圧制によって支配している憎むべき存在でした。しかし、イエス様がこの向こう岸、異邦人の地に渡られたのは、本日の箇所に語られている一つの御業のため、つまり一人の人の救いのためでした。一人の異邦人を救うために、イエス様は、あの嵐の湖を渡って来られたのです。

汚れた霊に取りつかれた人(3~5節)

イエス様に救われた人はどんな人だったのでしょうか。2節に「汚れた霊に取りつかれた人」岩波訳は「穢れた霊の中にいる人」です。この人が完全に汚れた霊に支配さている様子が伺えます。その姿はさらに3~5節にこのように描かれています。第一には「墓場を住まいとしており」第二に「だれも彼を縛っておくことはできなかった」第三に「昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた」汚れた霊によって人間性を失い、家族や社会との関係も断たれ、自分を傷つけてしまう、しかし誰もこの人を救うことはできませんでした。

かまわないでくれ(6~16節)

この人はイエス様を遠くから見ると、走りよってひれ伏しました。イエス様に救いを求めるためではありません。7節の言葉を語るためです。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ」この「かまわないでくれ」を直訳すると「私とあなたの間に何の関係があるのだ」となります。彼がイエス様に言ったのは、「俺とお前は関係ないだろう。俺は俺、お前はお前だ。俺のやっていることに口出ししないでくれ」。私たち人間を、イエス様とイエス様をお遣わしになった父なる神様と、無関係にしておこうとしているのです。人間に、神という束縛からの自由を求めさせ、神に対して「私にかまわないでくれ、口出しするな」と言わせることが悪霊の目的なのです。そのように神様との係りを失い、神様から自由になることによって人間は、悪霊の奴隷、罪と死の奴隷になるのです。

自分の家に帰りなさい(17~20節)

しかし、イエス様はこの人から離れず救おうとされるのです。汚れた霊に取りつかれた人はイエス様によって解放されました。悪霊の支配から解放されたこの人の姿が15節にあります。彼は「服を着、正気になって座っている」。私に「かまわないでくれ」と言った人がイエス様の足もとに座っているのです。この人はイエス様と「一緒に行きたいと願った」(18節)とあります。しかし、イエス様は彼を自分の家と帰されるのです。そこで神様の御業を証ししなさいとあらたな使命を与えられました。私たちの主は一人ひとりに為してくださった救いの御業を人々に証しすることを求められています。今週も与えられた恵みを人々に証ししていきましょう。(林)

「何を、怖がっているのか?」

マルコによる福音書:4章35節~41節

林 健一 牧師

 

向こう岸に渡ろう
イエス様は弟子たちに「向こう岸に渡ろう」と言われ舟にお乗りになり異邦人の地ゲラサに向かいます。イエス様は遠く離れた異邦人にも福音を伝えるために自ら出て行きます。弟子たちにも同じ思いを持つことを願い連れて行きます。弟子たちは、イエス様が言われたことであっても異邦人の地へと行くことに不安と恐れがあったことでしょう。私たちもイエス様の「向こう岸に渡ろう」とのお言葉であっても未知への領域に入るには不安と恐れがあると思います。
漕ぎ出したものの
イエス様に言われた通りに舟を漕ぎ出した直後に激しい突風が起こり、またたくまに舟は沈みそうになりました。弟子たちのなかには漁師もいたので彼らは必死になって舟が沈まないように力を合わせました。けれども状況は悪くなっていくばかりでちっとも好転しません。弟子たちはイエス様が「向こう岸に渡ろう」と言わなければこんな目には遭わなかったと思ったことでしょう。イエス様に従って進んだがために悪い状況に陥ってしまった。そう思えるような出来事に遭遇することが私たちにもあります。
寝ているイエス様
身の危険を感じた弟子たちはイエス様に目を向けます。彼らはイエス様を起こして「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」(38節)と訴えます。なりふりかまわないでイエス様に助けを叫び求める弟子たちの姿に「主よ、奮い立ってください。なぜ、眠っておられるのですか」(詩篇44:24)。神様の沈黙を嘆きながらも必死に祈り続ける信仰者の姿、時に祈りとはこのように叫んでもいいのだということを教えられます。
風を叱りつけるイエス様
イエス様は風を叱り、湖に、「黙れ、静まれ」と言われました。すると、風はやんで、すっかり湖は静まりかえりました。弟子たちが風と湖に翻弄されていたのに対し、イエス様は権威ある御言葉を持って風と湖をおさめることをしました。イエス様は神様でありすべてのものをおさめ、支配されるお方であることを弟子たちの前で示されました。イエス様は真の救い主であり、神様です。なぜなら弟子たちは風と湖に対処するのが限界であったのに、イエス様は風・湖をおさめることがお出来になるからです。
何を、怖がっているのか? 
自然さえも従わせるイエス様を見て恐れおののいている弟子たちに言われました。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」(40節)弟子たちは何を、怖がっていたのでしょうか?目の前にある自然を恐れていました。しかし、彼らは真に畏れるべきお方が目の前にいることを知りました。私たちもそうです。恐れさせるものはありますがイエス様が共におられるなら何を、怖がる必要があるのでしょうか。真に畏れるべきお方を信頼していきましょう。(林)

 

「ひとりの命のために」

マルコによる福音書:3章1節~6節

林 健一 牧師

 

イエス様は真に恵みを与えるお方です。
神様はいのちを与えて豊かにすることを願われます。今日の聖書箇所では、安息日に関連する出来事が出てきます。神様は恵みとしてイスラエルの民に安息日を守ることを命じられ、彼らは安息日を聖なる日として、守ってきました。この安息日に関しても当時のイスラエルの人たちは安息の日として喜ぶのではなく、何としてでも守るべきものとなってしまったことが描かれています。イエス様はこの出来事を通して、安息日の真の意味を教えてくださると共に真の恵みについて、また私たち罪人を真に生かすお方であることを示されました。私たちはこのお方を通して真の恵みと安息を与えられているのです。
どのようにすれば生かせるか
イエス様は、会堂で片手が萎えた人に出会いました。そこにはイエス様を訴えようとする人たち(ファリサイ派の人々)が病気を癒すかどうか注目し続けていました。その人を癒したならばイエス様が律法に違反したとしてすぐにでも訴えようとするためでした。彼らは直接イエス様に「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」(マタイ12:10)と尋ねました。安息日に人をいやすことは、労働と見なされ律法に違反するとされました。イエス様は彼らに対し安息日が何であるのかをはっきりと理解させるため、その人を真ん中に立たせた後、安息日に善を行い、いのちを救うことが間違ったことなのかと反問されました(3,4節)。イエス様は真の安息を失った世界で苦しんでいる人々に、最も重要なことは善を行ない、いのちを生かすことだと教えられました。主はどのようにして人を生かすかに関心を持たれます。 どのようにして殺すか
人間の罪の性質は、人を罪に定めて傷つけます。神様を恐れ、律法を守ると語る者が、その律法で人を殺そうとし、片手のなえた人への憐れみも関心もなく、彼をいやそうとするイエス様をどのようにして殺すかと相談するのです。人を生かすことに関心を持たないと、私たちも人を罪に定める者になってしまいます。断罪と非難を捨て、愛と憐れみによって人を生かす者となりましょう。
真の恵みと安息の中へ
イエス・キリストを通して、真の安息を得た私たちにとって、律法は守らなければならない束縛ではなく、神様の恵みです。真の安息の意味をイエス・キリストの中で発見した人は、人生の中で何が重要なのかを知ることができます。イエス様によって真の恵みと安息を経験してください。 (林)

「あなたの罪はゆるされる」

マルコによる福音書:2章1節~12節

林 健一 牧師

 

中風の人が四人の人に運ばれてイエス様のもとにつれて来られます。イエス様はその人に罪の赦しを宣言し、ご自分に罪を赦す権威があることを示されます。その人が起き上がり、床を取り上げて出て行くと、人々は神様を賛美します。
無力な人生 イエス様がカファルナウムにおられるとき、大勢の人が家の中でイエス様のことばを聞きました。その時、一人の中風の人が4人の人に運ばれて、イエス様のもとに来ました。この中風の人は自分の力と努力ではいやすことのできない、徹底的に無力な人生を生きていました。人間はだれでも自分の力では解決できない限界と問題を持って生きています。しかし、このように弱い者にも希望があります。それは自分の無力さを認め、神様の前に出ることです。
信仰さえあれば 一人では何もできない中風の人と、彼を運んできた四人の友人には、イエス様の前に来れば病をいやしていただけるという信仰がありました。その信仰をイエス様は見られました。(5節)。数多くの人々の群れのために、イエス様に会うことは簡単ではありませんでしたが、彼らにとってそれは問題ではありませんでした。信仰さえあれば、どんな問題でも問題ではなくなるのです。信仰さえあれば、私たちの霊と肉体すべてを完全にしてくださるイエス様に出会えるのです。
罪を赦されたイエス イエス様は五人の信仰を見ながら、病の人の罪を赦されました(5節)。それだけでなく、彼の病までいやされました。イエス様の奇跡はイエス様が神様だということ、罪を赦す権威を持っておられるということを示す出来事でした。(10節)。また、人間が最優先で解決しなければならないことが罪の問題だということを教えてくださいました。イエス様は単純ないやし主ではありません。神です。イエス様を通して霊肉の健康を保ちましょう。
イエス様は病の人とその友人の信仰を見られ、病をいやされました。主が私たちに求められるのはまさに信仰です。信仰は私たちの思いと状況、そして人生に変化を与え、神様の子どもとしての人生を歩ませてくれるのです。自分の弱さを認め、イエス様だけを見上げる人となってください。 (林)

1月7日(日) 10:30~11:30

「グッド・ニュース」

聖書:マルコ1:1~15

 

 

わたしによる福音書
「マルコによる福音書」1月から聖書教育ではマルコによる福音書を一緒に読んでいきます。新約聖書には4つの福音書があります。新共同訳聖書では誰々による福音書とあるのです。人を救いに導く福音は人によって表され伝えられていくのです。私たちを通して福音が世界にもたらされる。新鮮な気持ちで「マルコによる福音書」を読み進めていきたいと思います。
「福音」の中心メッセージはイエス・キリストです。またイエス・キリストの福音はマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネによる福音書としてそれぞれの視点で描かれているのです。それはイエス・キリストの福音が教えだけではない、福音によってイエスさまの人生にふれた彼らのように、私たちもイエスさまの人生の中に入っていくことであり、その中でイエスさまを信じ、福音に生かされていく経験をすることでもあります。そして、私にとって遠くに感じていた「福音」が他の人ではなく「わたしに与えられた福音」になっていきます。今度はマルコが福音を語ったように私が他の人びとに「わたしによる福音書」を持って語るようになるのです。

「福音の初め」
マルコによる福音書は「神の子イエス・キリストの福音の初め」(1:1)という言葉ではじまっています。「初め」という言葉に初めに注目しなければなりません。原文においては、この言葉が冒頭にあるのです。原文の語順に従って直訳すれば「初め、福音の、イエス・キリストの、神の子の」となります。この福音書は「初め」という言葉から始まっているのです。「初めに」という言い方は、創世記やヨハネによる福音書に出てくる「初めに」と出てくるこの世の初めないしはその前に何があったかを語っているのに対して、マルコは、「神の子イエス・キリストの福音」の初め(源)を語っているのです。「キリストの福音の初め」を語っているこの福音書こそ、「キリストの福音」を見つめていくための基本的な導きを与えてくれるのです。
では「福音」とは何でしょうか。この言葉は原文のギリシャ語では「エウアンゲリオン」です。「エウ」は「良い」という意味、「アンゲリオン」は「知らせ」という意味ですから「良い知らせ」という意味になります。「福音」はそれを漢字で表現したわけで、「福」は「良い、幸せな」、「音」という字は「音信」などとつながる「知らせ」という意味です。ちなみに英語では福音を普通「ゴスペル」と言います。「福音」とは「良い知らせ」という意味なのです。マルコによる福音書はイエス・キリストが福音の源であることを初めに語ります。イエス・キリストのご生涯をとおして私たちも福音の源にふれてまいりましょう。  (林)

 

 

主日礼拝 12月31日(日)10:30~11:30

ルカによる福音書 2章22~38節

「慰めの主」

 

新年礼拝 2018年1月1日(月) 14:00~15:00

コロサイ人への手紙3章12~14節

「愛でむすばれるわたしたち」

*新年のはじめを神さまの祝福からはじめましょう。

 

 

 

12月17日(日)10:30~

主日礼拝 「神様のイニシアチブ」  林健一牧師

ルカによる福音書1章39~56節

 

 

天使ガブリエルから「あなたは身ごもって男の子を産む… その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる」と神様のご計画を告げられたマリアは戸惑いと不安を感じつつも受け入れる決心をします。しかし、天使ガブリエルが去りひとり残されたマリアは何を思ったのでしょう。「本当に神様がそう言われたのだろうか?」信じきりたいと思いつつもマリアの心には疑いや不安、孤独でいっぱいだったに違いありません。人間とは何と弱い存在なのでしょう。「神にできないことは何一つない。」と「本当にそうだろうか」との間を揺れ動いているのです。神様が今すぐにでも結果を見せてくれたらと思う私たちであります。
どうも、神様は私たちが願うようになさらないお方のようです。神様は私たちが頭で神様の導きを理解するのではなく、一歩一歩確実に体で神様の導きと恵みを味わうことができるように導かれるのです。マリアはこの後、「急いで山里に向かい」(1:39)エリサベトを訪ねていきました。神様の言葉どおりかを確かめるためです。ここにマリアの信仰のすばらしさを見ることができます。マリアは不安と恐れのなかにとどまるのではなく神様の恵みを確かめようと一歩前にふみ出したのでした。神様の見えざるマリアへの導きがここにあると思います。ただ言葉だけでなく「行って、見てごらん。確かに神様が働いているのが見えるよ」と導いているのです。
マリアがエリサベトに挨拶をすると、驚くことにそのお腹の子が喜び踊り聖霊に満たされたエリサベトは喜びの声を上げます。エリサベトの口から出てきた言葉はマリアとお腹の子への祝福と主の言葉を信じた者の幸いを称えるものでした。この出会いをとおしてマリアは「神にはできないことは何一つない」ということを確信したのではないでしょうか。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」(2:47)神様が私に大いなることをしてくださった。主の愛でいっぱいに満たされたマリアは力強く神様を賛美するのです。
私たちは「私が~する。できる。」という価値観のもとに縛られているように思います。しかし、神様のイニシアチブに生きる私たちは「神様が私に大いなることをしてくださった」ことに歩む者であります。クリスマスを迎えるにあたり神様が私になしてくださった大いなる恵みの出来事を思い起こし、感謝していこうではありませんか。(林)